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チェンジメーカー 第7回 青山孝樹(あおやま・たかき) (財)岡山県サッカー協会事務局長
2011年12月22日
Profile
青山 孝樹 / AOYAMA Takaki さん
(財)岡山県サッカー協会事務局長
2010年度SMC本講座修了(7期生)
1955年4月、岡山県生まれ。
岡山県立邑久高校から日本体育大。卒業後、母校邑久高の非常勤講師から32年間の高校教師生活をスタート。
教員在職中に岡山県サッカー協会理事、技術委員長などを歴任。教員退職後、昨年より現職。
その1 誰かがやらないと
坂口:では、よろしくお願いします。
青山:よろしくお願いします。
坂口:まず、今の青山さんのお仕事についてお話しいただけますか?
青山:昨年から岡山県サッカー協会の事務局長をしています。まだ新入りで、以前の仕事とも全然違うので、事務局長という立場ですが、(周りのみなさんに比べて)自分が分からないことの方が多いんですけど。 笑
事務局では、外から集まってくる情報を必要な人に振り分けたり、仕事の役割分担したり。あと、いろんな事業や委員会があるのですが、実際、委員会だけでは動けないので、その事業を代わりに計画立案・実行したりしています。
坂口:事務局として、何でもやらなければいけないわけですね。現職の前は、教員でしたよね?
青山:そうですね。
私はサッカーを始めたのは、高校へ入学してからなんです。当時、その学校には部活動はなく、同好会でした。だから、チームの活動も遊び程度です。よその強い学校や、活動が活発な学校では、いい先生なり指導者の方が教えていましたが、自分たちのところは専門の先生が教えてくれるわけでもないので、好きな連中が、ほんとに好きで、一生懸命やってました。
自分はサッカー選手としては、始めたのも遅いので、指導者になって、同じような指導者に恵まれない生徒あるいは選手を指導したいなという思いで、体育大学に進学しました。教員になってすぐ、自分の母校で2年間ほど非常勤講師をしました。邑久(おく)高校という、田舎の学校なんですけどね。
坂口:「おく」ってどんな字ですか??
青山:「おく」ってね、「むら」という字。上に口を書いて、下に巴という字ですね。それから「久しい」。
坂口:それで「おく」。
青山:読めないですよね、だいたい。
そこの住所が当時は、邑久郡邑久町尾張(現・瀬戸内市)なんですよ。だから、大学行ったらね、、、
「おく(邑久)のおく(邑久)のおわり(尾張)」で、お前すごい山の中の田舎から来たんだなって、よく言われてね。 笑
坂口:笑
青山:そこから教師生活スタートしたんですよ。それから、岡山市内の学校を2つ経験して、玉野光南高校に6年いて、全国大会にも出ました。
そのあと、実家の事情なんかもあってですね、備前市に。自分の実家の方が、実は邑久よりもまだ東なんですよ。ほんとは、家の方がおく(奥)なんです。 笑で、その近くの、学校、和気閑谷(わけしずたに)高校に赴任しました。閑谷学校ってご存知ですか?
坂口:音だけは聞いたことあります。
青山:江戸時代前期に岡山藩によって開かれた、日本で一番古い庶民の学校だと言われてます。いま、世界遺産に登録しようって動きもあるんですよ。そんな地元の学校に勤めて、最後はまた邑久高校へ。自分の母校に帰って11年勤めました。サッカーを指導したいという思いで教師を始めましたが、もちろんサッカーだけじゃなく、いろんな生徒を相手に、教育の現場でやってきました。
32年間、教員生活をして、定年じゃないけど退職して、県サッカー協会に移りました。教員生活中には、指導者の資格もいろいろ取らせてもらったり、ここへ入る直前までは、技術委員長という役割もやらせていただきました。
でも、今後、岡山県のサッカー、日本のサッカーを普及発展させていくためには、それなりの環境が必要なんじゃないかなと思い始めました。環境、特にグランドやクラブハウスなど施設であるとか、指導者であるとかを育てていく仕組みを作るには、多くのことを実現させなければいけないと、気づきました。それには、一指導者、一教員だけの力ではどうにもならない限界も感じ始めていました。
プロジェクトを動かす組織であるとか、あるいは、ネットワーク、集団を作っていくことが必要なんだと思い始めましたね。ちょうどその頃にですね、岡山県サッカーのビジョンを作らなければいけない、ってことになりました。これ、日本サッカー協会から、全国の県協会はしっかりビジョン作って運営しなさい、と指導があったんじゃないかと思うんですけど、岡山県はなかなか重い腰が上がらなかったんですよね。
私も技術委員長で協会理事という立場だったので、ビジョン作成委員会にも入ったんですけど、その委員会がなかなか開かれない。先ほど言ったような思いもあったし、ビジョンをつくるのは大切なところなので、そこにしっかりと関わっていこうと。岡山サッカーの普及発展につながるようなビジョンを作りたいという思いで、私が強引に、委員会の開催を決めました。私は委員長でも何でもなかったんですけど。じくじたる思いがあって、やったんですよね。
そこから3年ほどかけて、昨年ビジョンが完成したわけです。今度は、できたら終わりという雰囲気になりました。作れと日本サッカー協会に言われたから、形を作りました、みたいなね。でも、やっぱり作っただけじゃダメ。これをスタートとして、ビジョンを実現させていかなければ。それには、やっぱり、協会の中枢に入って仕事しないと、誰かがやらないといけないんだなと。
それで教師を辞めて飛び込んだわけです。
その2 思いを形に
青山:SMCができた当時(2004年)は、私、SMC一期生の前田くん(前田真吾氏・NPOスポーツクラブエストレラ姫路理事長・高校教諭)としょっちゅう交流してたんですよ。彼が兵庫県の西の端の太子にいて、私が(岡山の東の端の)備前で。私が備前で、今から20年程前にクラブ連合というサッカーの組織を立ち上げんたんですね。彼がすごく興味持ってくれて、彼の熱い意見も聞いたり。姫路市の若者を集めるから、ちょっと備前の状況を話してください、って講演を依頼されたりしてね。
坂口:前田さんも同じ教員ですもんね。
青山:そういう中で、彼がSMCを受講したってことを聞きました。
思いはある。でもそれを形にしていくにはどうするかってことを勉強することも必要。なので、ぜひ、県の中枢にいる岡山県サッカー協会、あるいはファジアーノの立ち上げ準備組織には、そういう勉強をした人がいないといけないんじゃないか。ぜひ、そういう人を送り出してくださいって言ってたんですよ。自分じゃなくてね、誰かを、ですね。 笑
県協会のある会議中に、SMCの募集があったよ、若いもん誰か行かないか?
と言っても誰も行きたがらない。じゃあ、今年もやめるか、という話になりかけました。「それなら、私が行ってもいいですか」って手を上げたら、じゃあ、行きなさいってことになりました。変なこと言ってしまったなって、後悔しましたけど。 笑
もちろん自分のためにもなるし、それを活かすことで、協会のためにもなるんだろうけど、受講後に、他の人たちに、行くとこんないいことがあるから行っておいで、と言えたらいいなと。
坂口:岡山県は、なかなか受講してくれない県の1つでした。 笑
青山さんは、岡山県のサッカー、サッカー界に対して、何かしらの問題意識をお持ちだったんですね。
青山:そうです。
でも、大きい問題はないんです。大きい問題はないんですけど・・・・
もともと岡山という土地は、災害もないし、温暖で、食べるものにも不自由しない、そういう土地柄なんですよ。だから、革命的に何かを、革新的にやって行こうっていうんじゃなくて、周りがやって良かったら、じゃあやりますかという風なね、そういうマインドがあるんです。
実は、私は、20年ぐらい前に「岡山にJリーグをつくろう会」という会を作って、岡山にJクラブを作ろうって活動をしたんです。その当時、まだ川崎製鉄があって、Jリーグが始まってすぐのときでした。
活動は、いいところまで盛り上がったんですけど、条件であるホームスタジアムをどうするか、とか、組織体をどうするか、とかいうものをクリアするのに時間がかかってしまって、一旦終わりました。
ホームスタジアム候補地については、岡山駅のちょっと西の操車場跡地で、非常に立地条件がいい場所。そこを岡山市としてどうするかっていうことが、二転三転したんです。最初は公園。結局、倉敷にできたんですけど、チボリ公園という、公園の候補地になりました。それは反対運動が起こってつぶれて。で、その時の市長が辞めて。辞めたというか反対派に取って代わられたんですね。
そのあと水とカヌーの公園を作ろうって動きもあったんですが、Jクラブの話も出てね。そこにスタジアムを作って、岡山にJクラブをつくろう、できれば盛り上がるし、市全体に好影響があるんじゃないかってことでね。当時の市長は、乗ってくれたんですけど。その土地の用途が、議会のいろんな思惑で、二転三転して・・・・政争の具になってたわけですよ。
そういうこともあってか、当時の県サッカー協会は、全然動かずに、任意でやってくれと。だから任意で一生懸命やったんだけど、やっぱり、全体に火が点くところまでいきませんでした。そうこうしているうちに、川崎製鉄が本社の神戸にとられてヴィッセル神戸になって。
チームもいないし、スタジアムも二転三転してるような状況になって、一旦、その火は消えたんですけど、その仲間たちは、もう一度、今のファジアーノを一から作り始めました。
でも私は、Jクラブではなくて、総合スポーツクラブのような、住民のためのクラブが各町にできて、スポーツが市民の暮らしにいい影響を与える、スポーツが生活の中に溶け込むような、そういうものをつくる活動をしたくなりました。
備前で「クラブ連合」という、単一のクラブではないけど複数のクラブで連合して、縦(幅広い年代)で一貫した指導体制をつくろうということを始めました。いろんな活動をしている各年代のクラブがあるけど、「クラブ連合」という形で、各指導者が一つの組織の中で協力し合うような形をつくりました。
もちろん、各クラブともいろいろ事情があるからひとつの「備前クラブ」、ということにはならなかったんですが、「連合」って形をつくったんです。設立年にちなんで「1993備前サッカークラブ連合」。愛称まで考えて「ヒーロ備前」ってつけました。
坂口:それは多種目で、されたんですか?
青山:その時はまだサッカーだけでした。でも、ジュニアからシニアまで一緒になってつくりました。それで、年に2回は全体の活動をやっていました。あとは、連絡協議会を月に2回開いて、お互いに情報交換したり、勉強会したり。それが今では、バレーボールとか、ボーリングとか、他種目も加わって「びぜん優クラブ」って総合スポーツクラブになってるんですよ。
今思うと、びぜん優クラブも、Jクラブを作るのも、思いがあってやったんですけど、なかなか、その思いを他人に伝えることが難しかったですね。企画書を作って、人に伝えることとか、その手段もそのころはよく分からなくって。わからないなりに図面作ったりして、やったんですけど、進め方の手順だとか、周りの盛り上げ方とかね。すべて手探りでした。
みんなで、ほんとに夜中まで話し合って、夜中に帰ったりしながらね。思いはあったんですけど、思いだけでは、どうにもならないという限界も感じました。
岡山で何か発信し、声を出すだけやったら、なかなか岡山県人というのは、新しいことには飛びついてくれない。
広島にサンフレッチェができた、神戸にヴィッセル神戸ができた、徳島にヴォルティスができた、愛媛に愛媛FCができた。じゃあ、うちもそろそろやらなくちゃっていう感じでね。周りがやってうまくいったのを見て、気運がぐっと盛り上がってファジアーノができていきました。何か仕掛けをしなきゃいけないんだなということは常々感じています。
その3 まず何がしたいか
坂口:SMCを受講されている時に感じたことや、受講して、今活かされてることがあったらお話しいただけますか?
青山:受講する前は、ある程度の知識とかスキルがないと受講できないんかなと思ってたんです。例えば、指導の現場で、サッカーを教えるとか、体育の授業を教えるとか、ということは経験も知識もありました。でも、収支決算をどうやるかとか、企画書を作るのにパソコン使って図表を作るとか、伝えるためのプレゼンテーションにパワーポイントを使うだとか、その手のことは本当に苦手だったんです。
坂口:教員を辞められて、その年に受講したんですもんね。
青山:そうなんです。辞めた年だったんですよ。ちゃんとした知識や技術がないと受けられない、受けてもついていけないとか、身につかないとか。そう思ってましたが、自分の立場が事務局長になったこともあり、受講を決めました。やるとなったら、本当にどうにかしなきゃいけなくなった。
技術だけじゃないんだなということがよく分かりましたね。技術は大事なこと。でも、それより大事なのは、まず何がしたいか、どう物事を考えるか。そして、そのためにどう論理的に組み立てていくか。
まず、思いや目的があって、そして、どうやるかというノウハウがある程度分かっていて、その一つ一つのアクションを進めるためには、どうしたらいいか、という組み立て。
でも、それは自分だけの力じゃなくて、いろんな人の力を借りればできること。だから、技術は、自分が全部持ってなくてもできる。いろんな人の助けを借りればいい。そういうことが、ひと通り受講してみて、実感できました。
坂口:では、青山さんの中で、今後やって行きたいことはなんですか?もちろん、この岡山県サッカー協会が舞台になると思いますが。
青山:協会として、サッカーあるいはスポーツ全体を、いかにみんなに喜んでもらえるような状況や環境にしていくかが課題です。
そのために、種別、連盟、委員会や各事業がもっと機能するように組織化していかなければなりません。SMCで学んだことを、どのように周りに伝えて、自立して動くことを助けていけるか。
それが全てではないですが、それぞれの担当者が何かをするときに、こういう方法でやるともっとやりやすいですよってことを提示して、それぞれの思いを、それぞれが実現できるようにしながら、みんなをリードしていけたらいいかなと思っています。
あと、自分としては、「SMC行って良かったよ」ということを周りや後輩に伝えて、仲間を増やしていきたいですね。
その4 全体像を俯瞰できる
坂口:岡山県のサッカーは、今どうで、これからどうなっていきそうですか?
青山:競技成績は個々の頑張りで、いい成績を収めています。
例えば、今回の国体でも女子が3位になったり、昨年は少年が5位で、女子が2位だったりとか、それからJ2ファジアーノがあったり、なでしこの湯郷ベルがあったり。それぞれの年代で、上位を占めるような活躍をしてくれています。
ただ、一部の個々の努力だけではなくて、そういう活躍をみんなが支援したり、そこから、またみんなに経験をフィードバックするとかね、双方向の流れができるようにしていきたいですね。情報や交流が、岡山県全体に行きわたるために、今、もも太郎ネットワークというものをやってるんです。市町サッカー協会を早く立ち上げて、それぞれが県の北でも南でも東でも西でも幅広くネットワークができるようにしていきたいなと思っています。
ネットワーク化も、ジョイントミーティングという形で、7月に1回やったんですよ。次は11月なんですけどね。
市町サッカー協会の役員さんとか、関係者の人たちに来てもらって、ゲスト講師の講演を聞いて、そのあと、ディスカッションをしようと計画を立てています。
坂口:楽しみですね。
青山:そうですね。前回、僕がいきなり、そのディスカッションをグループワークでやろうって提案したんですよ。SMCのイメージでね。
ビジョンと戦略について、それぞれに、何年後、何年後と達成年度をつけた枠組みを用意して。グループでディスカッションしながら枠を埋めていく。
こういうのでやってみようって提案したら、ちょっとそれはまだ早いんじゃないかって、却下されました。 笑
そんなに、すぐにパッパッといくもんじゃない。僕らも、いろんなことを勉強しながらそこまでたどり着いていったな、というのも思い出して、みなさんの言ってることももっともだなと思いながら、また次回にしましょうってことにしました。 笑
坂口:その、理解度や意欲を確認しながら、ちょっとずつ進んでいくことが大事なんです。
青山:以前だったら、それは今やらないとだめだよって、焦ったりしたんですけど、SMCで全体像を勉強したことで、今ここの部分なんだから、そんなに急がなくてもいいんだなとか、全体を見ながら、局面局面を判断する、そんなイメージを持てるようになりましたね。
ちょっと気が長くなりました。
坂口:見える範囲も、時間軸も増えて、全体像を捉えるイメージができてきたんでしょうね。
青山:はい、全体像を俯瞰できるようになってきました。
何か問題があったときにも、SMCの分厚いファイルを引っ張り出して、今も活用しています。これはマーケティングのパートに出てそう、で、こんな方法で考えたなと思い出しながらね。
SMC受講は、僕にとって、すごく大きな成果になりました。
坂口:良かったです。ちょっとは役に立ってますね。今日はありがとうございました。
青山:ずいぶん役に立ってますよ。ありがとうございます。
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