「ドーハの悲劇」の翌1994年、4年後のフランス・ワールドカップ出場を目指す新生・日本代表が立ち上げられた。
チームの指揮を託されたのは、ブラジル人のファルカン監督だった。新監督は能力の高い若手を抜擢し、新たなチーム築こうとしたが、同年に広島で行われたアジア大会で準々決勝敗退に終わると解任。1年に満たない短期政権に終わった。
後任に就いたのは、加茂周監督だった。「ゾーンプレス」という革新的な戦術で横浜フリューゲルスを強豪クラブに押し上げた手腕が評価されての抜擢だった。
日本代表にもゾーンプレスが植え付けられ、95年のダイナスティカップで優勝したが、96年のアジアカップでは準々決勝でクウェート代表に敗れて敗退。翌年から始まるワールドカップアジア予選に向けて、小さくない不安を抱えていた。
©JFA
1997年3月から始まったアジア1次予選では、オマーン代表、マカオ代表、ネパール代表と同組となり、5勝1分と危なげない戦いを披露。6試合で31得点・1失点という圧倒的な成績での首位通過だった。
同年9月に始まったアジア最終予選は、ウズベキスタン代表、UAE代表、韓国代表、カザフスタン代表と同じグループに組み込まれた。フランス行きの切符をストレートで手にできるのは1位チームのみという狭き門。2位チームはもう一方のグループ2位とプレーオフを戦う必要があった。
初戦のウズベキスタン戦では三浦知良選手が4ゴールを奪う活躍などで6-3と快勝。しかし続くUAE戦をスコアレスドローで終えると、第3戦の韓国戦は67分に山口素弘選手の鮮やかなループシュートで先制しながら、終了間際に立て続けに2ゴールを奪われて、ライバル国に屈辱の逆転負け。3戦を終えて勝点4にとどまり、韓国、UAEに次いで3位に転落。早くも首位通過が厳しい情勢となった。
©JFA
そんななかで迎えた第4戦のカザフスタン戦でも1-0で迎えた後半アディショナルタイムに失点し1-1のドロー。首位の韓国との勝点差は7に広がり、首位通過はほぼ絶望的となった。
窮地に立たされた日本は、ここで決断を下す。加茂監督を解任し、岡田武史ヘッドコーチを監督に昇格させたのだ。
しかし、1週間に満たない準備期間で迎えた第5戦のウズベキスタン戦も1-1のドロー。勝点1差を付けられたまま、10月26日に国立競技場で、2位UAEとの直接対決を迎えることとなった。