2017.06.05
【経験者が語るアジア最終予選の真実#第4回】1998年フランスワールドカップ:岡野雅行<前編>出番はなかなか訪れず……。“秘密兵器”の葛藤
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「もう、日本に帰れない」
再三にわたるチャンスを外し続けた快速ストライカーのメンタルは、崩れ落ちそうになっていた。それでも仲間に鼓舞されて、残されたわずかな時間に人生のすべてをかけた。
そして迎えた延長後半の118分、中田英寿選手が放った強烈なシュートはGKに弾かれる。しかし、こぼれ球にいち早く反応したのは、長髪を振り乱してゴール前に走り込んだ背番号14だった――。
1997年11月16日は、日本が初めてワールドカップ出場権を獲得した歴史に残る一日となった。「ジョホールバルの歓喜」として記憶されるこの試合の主人公となったのは、現在ガイナーレ鳥取の代表取締役GMを務める岡野雅行さんだ。あの劇的なゴールはどのようにして生まれたのか。今も変わらぬワイルドさを保ったままの“野人”に、当時の記憶を呼び覚ましてもらった。
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1997年9月8日、日本はFIFAワールドカップフランス大会 アジア最終予選を、ホームの国立競技場でスタートさせた。4年前、あと一歩のところで逃した悲願を成就させるための最後の戦いである。プレッシャーや緊迫感に満ちたシチュエーションであるのは間違いなかった。しかし、岡野さんは「ワクワクしていましたね」と、当時を振り返る。
「僕は無名だったので、プロになっただけでもびっくりされたような選手。それが代表に入って、しかもワールドカップに出るための戦いの場にいられるんです。ドーハの悲劇の時はまだ大学生で、テレビで見ていましたが、まさか4年後に自分がその立場になっているとは想像もしていませんでした」
もっとも代表に招集されてはいたものの、岡野さんは試合ではメンバー外となることが多く、スタンドから試合を見つめることがほとんどだった。
「ハーフタイムに客席のトイレに行くと、隣に僕のユニホームを着た人がいて、何度もこっちをちらちら見てくるんですよ。まさかここにいるはずがないなという感じで(笑)」
メンバー外であることには当然、満足はしていなかったが、初戦のウズベキスタン戦での快勝を「すごいなという感じで見ていました」と、最終予選が始まった頃はまだ当事者ではなく、傍観者のような感想を抱いていた。
ところが第3戦で韓国に敗れると、岡野さんの心境が大きく変化する。
「ホームで負けて、甘くないなと思いましたし、俺が出たらこういうふうにするのになというイメージを強く持つようになっていました。もちろんメンバーに入れているだけでもすごいことだなと思いつつも、なんで出してくれないんだよと。試合を見ながら、いろんな感情が湧いてきていましたね」
日本は初戦のウズベキスタン戦こそ快勝を収めたものの、続くアラブ首長国連邦(UAE)戦に引き分け、最大のライバルと見られていた韓国にはホームで逆転負け。次第に苦しい状況に追い込まれ、世間からの風当たりも強くなっていった。
「マスコミが叩くわけですよね。サポーターも、当時はコアな方がほとんどだったので、厳しい声も飛んでくる。プレッシャーが強くなるなかで、だんだんみんなげっそりしていって、胃薬を飲みながら試合をしているような選手もいました。でも僕は試合に出ていなかったので、一人だけ元気なんです(笑)。暗い雰囲気をなんとかしようと、移動中にバスガイドの真似とかをしたりして、チームを盛り上げるようなことをやっていました」
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しかし、事態は好転せず、アウェイで行われた第4戦のカザフスタン戦に引き分けると、加茂周監督が更迭されてしまうのだ。
「もう最悪でしたよね。実はあの試合のあとに、加茂さんに文句を言ったんです。なんで出してくれないんですかって。それで、そのあとにカザフスタンに来ていた知り合いと、ご飯に行っちゃったんですよ。そしたらその時に緊急記者会見があって」
食事を終えてホテルに戻ると、ロビーにマスコミが大挙押し寄せている。
「どうしたんですか?」
「え、岡野君知らないの!」
加茂監督更迭の事実を、岡野さんはスタッフからではなく、マスコミから聞いたのだ。
「部屋に戻ったら。お前何やってるんだよと、さすがに怒られましたけど(笑)」
岡野さんらしいエピソードだが、その事態の重大さは十分に理解していた。
「世間もマスコミも批判だらけ。もう、信じられるのはここにいる仲間しかいなくなったわけですよ。加茂さんだけのせいじゃない。俺らの責任だ。とにかくここにいるファミリーだけは信じて、もう一回やっていこうと。そうやって話し合ったのを覚えていますね」
しかし、岡田武史監督の初陣となったウズベキスタン戦でも日本は勝利を得られなかった。そして岡野さんには、またしても出番は訪れなかった。チームの結果が出ない中でも、チャンスは与えられない。自分が出れば、流れを変えられる。その自負が強かっただけに、岡野さんはこの状況をなかなか受け入れられなかったのだ。
「岡田さんになったら出られるかなと思ったんですけど、やっぱり出られなくて。だから岡田さんに聞きに行ったんですよ。何で出れないのかって」
すると岡田監督は、こう答えたという。
「お前は秘密兵器だ。隠し球にしておきたい。お前が必要な時は、絶対に来るから」
切れそうになっていた岡野さんのメンタルは、この言葉によって救われた。
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ホームで行われた第6戦のUAE戦でも、日本はまたしてもドローに終わる。すると試合後に、怒りを抑えきれなくなったファンが日本のバスを囲むという事件が勃発したのだ。
「僕はその時メンバー外だったので、バスではなくてタクシーで先にホテルに帰ったんですよ。みんなで食事をとるために食堂に行ったら、みんななかなか来ないんです。おかしいなあと思って、一度部屋に帰ってテレビを付けたら、大変なことになっていた」
直接的に被害にあっていない岡野さんだったが、この状況が普通ではないことを感じ取っていた。
「もう、精神的にはボロボロでしたね。でも、みんな最後まで信じていたし、勝てないことで結束力が強まった。跳ね返していこうという感じになったのが、その後の戦いにつながったと思います」
すでに首位通過の可能性が潰えていた日本は、グループ2位に入り、第3代表決定戦に望みを託すしか道はなくなっていた。追い込まれた日本は、ここから見事な反発力を見せる。第7戦、アウェイでの韓国戦を2-0でものにすると、ホームでの最終節ではカザフスタンに5-1と快勝を収め、なんとか2位を確保したのだった。
第3代表決定戦の相手はイラン。岡野さんは決戦までのおよそ一週間、虎視眈々と出番を窺い、気持ちを高めていた。
「ついに、秘密兵器の出番が来たなと。もう、試合前までの期間は興奮しっぱなしで、なかなか寝られなかったです。試合前日も、寝ようと思って目をつむればゴールのイメージしか出てこない。気づいたら朝になっていました」
岡野さんはほとんど睡眠をとらないまま、イランとの第3代表決定戦に臨むことになった。