1997年のFIFAワールドカップフランス大会アジア最終予選で、日本は初めて本大会行きのチケットをもぎ取った。中立地のマレーシアで開催されたイランとのアジア第3代表決定戦を延長ゴールデンゴールで制した一戦は「ジョホールバルの歓喜」と称され、歴史の1ページとなった。22歳の若さでゴールマウスを守った川口能活が、記憶をさかのぼる。
あまりに濃密な1年だった。
©JFA/PR
ブラジルを撃破したアトランタオリンピックのメンバーである川口は加茂周監督率いる日本代表に招集され、1997年2月のキングスカップ、スウェーデン戦で国際Aマッチデビューを果たすと一気にレギュラーに定着していく。FIFAワールドカップフランス大会アジア1次予選を突破した日本は最終予選に駒を進めた。彼に待っていたのは日本中の期待を背負い、重圧と戦う日々であった。
「あの97年は、勢いでやっていくしかありませんでしたね。加茂さんが僕を抜擢してくれて、その期待に応えるためにも、ただただガムシャラに戦い抜こうと思いました。」
最終予選の初戦は9月7日、ホームの国立競技場でウズベキスタンを迎えて6-3と快勝した。だが続く第2戦アウェイでUAEに引き分けた後、ホームでの第3戦韓国戦で先制しながらも1-2と逆転負けを喫してしまう。川口はこう振り返る。
「ウズベキスタン戦の雰囲気は今でも覚えています。紙吹雪が舞って、日本のゴールが決まるとサポーターのみんなが絶叫して、あの熱があったから僕たちの第2エンジンが作動したんです。苦しいなかでもまた別のエネルギーがわいてきたのは、サポーターの熱があったからこそ。でもその後、苦しい戦いになることは分かっていましたけど、想像以上にプレッシャーがのしかかってきました。勝てないことで、失点することで、ワールドカップの道が断たれるわけじゃないのにワールドカップにいけないんじゃないかとか無言のプレッシャーというものを感じながら戦わなければなりませんでした。」
©JFA
重圧という見えない敵との戦い。
1勝1分け1敗でむかえた第4戦のアウェイ、カザフスタン戦は1-0とリードしながらも後半ロスタイムに追いつかれてドローに終わった。その日の夜に加茂監督が更迭され、岡田武史コーチの監督昇格が発表された。続く第5戦アウェイでのウズベキスタン戦まで1週間。川口自身も追い込まれていた。
「加茂さんに選ばれた僕たちが結果を残せずに加茂さんだけが責任を取らなければならない状況になってしまったので、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。加茂さんのため、この苦しい状況で監督を引き受けてくれた岡田さんのために、何としてもワールドカップに出るという気持ちで(チームが)一つになりましたけど、冷静になれた人ってやっぱり少なかったかなとは思うんです。日本もウズベキスタンも負けたら後がない。あのときはスタジアム全体が殺気立っていて、生きるか死ぬかの戦い、本当に厳しい試合になりました。」
©JFA
0-1でリードされながら終了間際に何とか追いついてドロー。そして第6戦ホームのUAE戦でも勝ち点3を得られず、決定戦に進める自力2位の可能性が消滅した。初戦とはまるで違う国立の光景が、川口の目の前に広がっていた。
「試合が終わって、スタジアムがシーンとなったんですよ。声も音もない。ブーイングもない。絶望感に包まれたという、そんな雰囲気でした。」
選手バスはサポーターに取り囲まれ、ファンの悲嘆と怒りをただただ受け止めるしかなかった。しかし最終予選の戦いがジ・エンドになったわけではなかった。
©JFA/PR
日本のいるグループBは、韓国が1位で本大会出場を決めたものの、2位UAEとの勝ち点差はわずかに1。川口はあきらめていなかった。背中にのしかかっていたプレッシャーが次第に薄まっていくような感覚を得ていた。
「あそこで完全に開き直った感じでした。追い詰められるだけ追い詰められたので、目の前の試合に集中するという原点に返ることができた。失うものはもうありませんから。」
韓国、カザフスタンに2連勝して第3代表決定戦進出を決めた。土壇場に来て、日本に追い風が吹き始めていた。