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得点を悲しんだ男 ~いつも心にリスペクト Vol.143~
2025年04月24日
「マンチェスターに行くなら、この写真を探してきてください」
サッカー専門誌の編集部員だった1976年の秋、私はある執筆者からこんな注文を受けました。
「1974年4月のマンチェスター・ユナイテッド対マンチェスター・シティ。0-0で迎えた後半36分、マンチェスター・シティはFWデニス・ローがゴールに背を向けたまま、右足のヒールキックで決勝点を決めたんです。そのゴールの写真を、ぜひ次号の記事で使いたいのです」
当時私は25歳。マンチェスターはもちろん、イギリスに行くのも初めてのことでした。しかし若さゆえの怖いもの知らずと、メディアやサッカーが今日とはまったく違い牧歌的な時代だったこともあり、マンチェスターでの取材のある日、私は気楽に大衆紙「デイリー・エキスプレス」のマンチェスター支社編集局を訪ねました。
「日本のサッカー専門誌でマンチェスターのサッカーの写真を使いたいので、探しにきた」と受付で話すと、すぐに写真部に連れていかれました。そして対応してくれた写真部員は、私の話をふむふむと聞くと部屋を出ていき、やがて1冊のスクラップブックを手に戻ってきました。
「その試合の写真はこのスクラップブックに入っているから、必要なカットを選んでくれ」
モノクロ写真のネガフィルムでした。試合名以外に何の解説もないフィルムでしたが、前後関係からこの試合の得点シーンは一目瞭然でした。たしかに、背番号10をつけたローがゴールに背を向けたまま、得点を決めていました。
「これです」と示すと、彼は再び部屋を出ていき、30分ほどで「はいどうぞ」と、プリントした写真を手渡してくれたのです。
「使用料は?」と聞くと、「マンチェスターのサッカーの話を日本の雑誌に載せてくれるんだろう? プレゼントするよ」
そう言いながら、彼はこんな話もしてくれたのです。
「デニス・ローはね、このあととても悲しそうな顔をしたんだ」
その言葉が気になって、私は調べてみました。
デニス・ローはマンチェスター・シティでスターになり、イタリアのトリノに移籍。しかしわずか1シーズンで今度はマンチェスター・ユナイテッドに移籍します。そしてそこでボビー・チャールトン、ジョージ・ベストらと黄金時代を築き、1968年には欧州チャンピオンズカップで優勝を飾ります。現在も、オールド・トラフォード・スタジアムの正面には3人の銅像があります。中でもローはサポーターの人気が高く、「キング」の愛称で親しまれました。
しかし1973年に契約を延長しないことを通達され、彼は古巣のマンチェスター・シティに戻ります。そして運命のいたずらは、ユナイテッドの1部残留がかかったシーズン最終戦の相手にマンチェスター・シティをもってくるのです。そしてロー自身がシティの決勝点を決めるというめぐり合わせになってしまうのです。
ローは得点を決めた直後にこの事態に気づき、一瞬顔をこわばらせます。そしてチームメートの祝福に笑顔も見せず、自陣に戻っていきました。
彼はすぐに交代を申し出、シーズン後には引退を発表します。選手生活の最高の時期の11シーズンを過ごしたユナイテッド。そのファンから深く愛されていたことを彼はよく理解していました。はからずも彼自身のゴールで彼らにつらい思いをさせてしまったことを、彼は強く後悔したのです。
「審判はオフサイドにすることもできたはずだ。でも得点を認めてしまった。とても悲しかったよ」
後に彼はそう語っています。「古巣」に対するゴールに派手な喜び方をしないという慣習は、このときのローから始まったといいます。
そのローも今年1月に亡くなり、オールド・トラフォード正面の銅像の3人は全て帰らぬ人となりました。しかしマンチェスターでは、今でもこのときのローの悲しそうな顔の話が、父から子へ、そして孫へと語り継がれているそうです。
寄稿:大住良之(サッカージャーナリスト)
※このコラムは、公益財団法人日本サッカー協会機関誌『JFAnews』2025年3月号より転載しています。
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