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天皇杯決勝史のある宝物 ~いつも心にリスペクト Vol.140~
2025年01月24日
11月23日、「天皇杯 JFA 第104回全日本サッカー選手権大会」の決勝戦が開催されました。対戦はガンバ大阪×ヴィッセル神戸。関西チーム同士でしたが、東京の国立競技場は56,824人もの大観衆で埋まりました。
試合は一進一退の展開でしたが、後半の19分に神戸が神戸らしい攻めから決勝点。見事2回目の優勝を飾りました。
天皇杯の決勝戦は、1968年度の第48回大会から2013年度の第93回大会まで、実に46大会にわたって「元日・国立競技場」で行われてきました。「元日決勝」の3回目、第50回大会から全ての決勝戦をスタジアムで見てきた私のような年代の者にとっては、天皇杯の決勝戦は「正月の風物詩」のようなものでした。忘れられない試合はたくさんありますが、中でも83年度の第63回大会の決勝戦には宝物のような物語があります。
対戦は日産自動車×ヤンマーディーゼル。試合は後半に2点を取った日産が2-0で勝ち、初のメジャータイトルを獲得しました。
日産はヤンマーのコーチだった加茂周さん(後に日本代表監督)が1974年に当時神奈川県リーグ1部にいたチームの監督に就任し、10年間かけて育て上げたものでした。77年に日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格し、79年に1部に上がったものの2年で降格、チームを大改造して1年で1部に復帰、その2シーズン目の83年には2位に躍進し、その勢いのまま天皇杯で決勝に進出したのです。金田喜稔さん、木村和司さん、柱谷幸一さん、そして水沼貴史さんなど日本代表の若手を並べた攻撃陣は、強力そのものでした。
一方のヤンマーの監督は釜本邦茂さん。日本サッカー史上最高のサッカー選手と言われた人です。この年は「プレーイングマネジャー」としてチームを牽引し、自ら「スーパーサブ」の役割を果たして、準決勝の日本鋼管戦では決勝ゴールをアシストしていました。
メディアでは、釜本さんは「この天皇杯を最後に引退するだろう」と騒がれていました。相手チームの日産の監督である加茂さんは、その報道に無関心ではいられませんでした。67年に早稲田大学を卒業した釜本さんがヤンマーに入ってきたことで、加茂さんの指導者としての人生が始まったと考えていたからです。
「私にとっては、『釜本のコーチである』ということが大きな励みになった。(中略)コーチ加茂は、選手・釜本が自分のいうことに耳を傾けるよう(中略)猛勉強した。釜本くんとの6年間のなかで自分はコーチとして成長できた」(加茂周『モダンサッカーへの挑戦』講談社1994年より)
元日の朝、試合前のミーティングで、加茂さんは日産の選手たちにこんな話をしました。
「日本が世界に誇る選手が引退するのだから、彼に敬意を表してほしい。(中略)もし途中で交代したら、そのときには全員でハーフラインに並んで見送ってほしい」(同前)
この試合でも、釜本さんは後半から出場しました。しかしヤンマーは劣勢をはね返すことはできず試合が終了しました。
試合後、「引退」のひと言を求めて、取材陣が釜本さんに群がりました。しかし釜本さんは自分自身のことは一切語らず、スタジアムを後にしたのです。釜本さんが引退を発表したのは、それから1カ月以上たってからのことでした。
釜本さんは、ずいぶん前から「天皇杯で引退」を決めていました。優勝して、決勝戦の直後に発表しようと闘志を燃やしていたのです。
しかしヤンマーは敗れ、日産の初優勝となりました。
「自分がここで引退を発表したら、新聞やテレビのニュースではそのことが大きく扱われ、せっかくの日産の初優勝が小さな記事になってしまう」
釜本さんはそう考え、何も語らずに帰途についたのです。
加茂周さんと釜本邦茂さん。心から互いをスペクトし、さりげなく気遣う姿は、百回を超す天皇杯決勝戦の歴史でも、屈指の「宝物」ではないでしょうか。
寄稿:大住良之(サッカージャーナリスト)
※このコラムは、公益財団法人日本サッカー協会機関誌『JFAnews』2024年12月号より転載しています。
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