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キリンカップミュージアム スペシャルインタビュー Vol.2 加藤久 プロの匂いを直接感じることが出来た大会。 ~日本サッカー界がプロ化に向かって行く中で~
2016年05月31日
― 加藤さんは1980年大会名称が「ジャパンカップ」から「ジャパンカップキリンワールドサッカー」に名称が変更された大会から出場されています。
加藤 久(以下、加藤)この招集は、びっくりしたことを覚えています。この前にも代表に呼ばれた事が有ったけど、次に呼ばれるのは、秋頃かなと思っていたところすぐに招集されたので。というのも、実はこの前年大学に残りながらサッカーを続けようと色々調整していて、約1年サッカーから遠ざかっていた時期だったんです。それでも筋肉を落とさないように、ディフェンスというポジションがら当たり負けしない身体を作ろうと思っていました。
今のように簡単に情報が手に入る時代ではなかったのですが、独学で食事法やトレーニングを勉強して、一回り身体が大きくなりましたね。現役を長く続けることが出来たのも、この時のトレーニングが大きいかもしれません。
― 1982年大会は、キャプテンとして試合に出場していますが、当時オフザピッチも含め日本代表キャプテンとして意識していた事などありますか?
加藤 今の代表チームのようにスタッフも多くなかったし、分業制でもなかった。そういう意味で、森孝慈監督がキャプテンとして自分を選んだということは、監督の意図を選手に浸透させること。それともう一つは、代表チームだからタレント豊富で、上手い選手は、たくさんいるけども、「全力をつくすことだけは、誰にも負けない」と言うことを、ピッチで示さなきゃいけない。言葉だけでは、やはり伝わらない部分もあるから、自分は行動で示すタイプだったかな。
― 1983年、この頃日本は、まだJリーグが始まる10年前。日本代表が、プロに勝てば金星という時代だった。この頃の日本代表チームそして、キリンカップはどうでしたか?
加藤 同じフットボーラーとしてアマチュア選手としてやるか、プロ選手としてやるか。ピッチに立てばプロとアマの差はないと言うが、正直プロとアマの差はあったと思います。特にピッチに立つ前の意識の差や、環境の差。試合に向けてのコンディショニングとかもね、海外のプロクラブとやるときに感じましたね。
当時の日本代表は、普通の旅館のようなところに泊まって、朝ご飯も一人ずつ御膳にのって出てくる、いわゆる旅館の朝ごはん。アスリートの食事では無かった。今は、ビュッフェ形式だったり、栄養士さんがついたり、海外遠征にはシェフが帯同したりする。他にも、移動や、コンディショニングに関しては、現在の代表チームとは雲泥の差ですよ。
チームスタッフも少なくて、ケガしたら宿舎に戻り自分で氷を頼んで、冷やす。もっと具合が悪くなったら監督やコーチが自ら病院に電話して、選手に付き添って病院にいく。プロとアマの違いは、「試合に向けて最高のコンディションを作る」ということだとするならば、何がベストなのかを、当時は知らなかったし、なかなか叶えられなかったという事でもありますね。それでも当時は、それが当たり前だと思っていたので、不平不満はなかったですね。
環境の差という意味では、今のように、芝生のピッチばかりではなかったですね。海外クラブの選手がきて、土のグラウンドで砂埃が舞うのを見て、試合前に肩をすくめたのを覚えています。そして、代表戦だから全てが満員になるわけでもなかったし、同じ国立競技場で試合をしても対戦カードによってはすごくお客さんが少ない時も有りましたね。そんな時代でもキリンカップは、海外のプロと日本で試合ができる。本当に良い大会でしたね。いつも5月6月に試合をして、そこからワールドカップ予選に向かう。日本代表にとっても自分にとっても、本当に色んな意味で貴重な大会でしたね。
― 1986年のキリンカップと言えば、国立競技場で行われたブレーメン戦。ドイツブンデスリーガのクラブチームの一員として奥寺さんも名を連ねていました。この試合、ものすごい雨でしたね。
加藤 そうそう。土砂降りで、今みたいにピッチの水はけが良くなく、水たまりもできるし、スライディングしたらすごく滑っていってしまう。その当時すごく印象的だったのは、プロはそんなピッチ状況でもボールコントロールできていたことですね。水たまりにボールが止まってもチョンと浮かして、パスを繋いだりして、ちゃんとサッカーになる。止める、蹴るという基本や、体幹が違うんだなあと本当に思いましたね。そのことは結果や点数以上に印象に残っていますね。今思うとヨーロッパのクラブチームも、シーズンを終えてくるから余裕を持って試合をしていた。それでもサッカーをプロとしてやっているチームと試合ができる経験は大きかったですね。
― 出場したキリンカップの中で1番印象に残っている試合はどの試合ですか?
加藤 1987年のセネガル代表との試合ですね。この時は、身体能力の高さに本当に驚きました。自分がジャンプしてヘディングしようとしているに、頭の高さにスパイクが来るし、足の太さがや強さが、もう棍棒の様で…。自分も鍛えてきたので、フィジカル的には、プロとやっても当たり負けしない自信があったけど、正直恐怖感を初めて感じましたね。フィジカルの強さって、これほど違うのか?身体そのものが厚いと言うか、大きかったですね。オランダなどの大きさとか違って、タックル1つとっても正直荒っぽかった印象があります。南米やヨーロッパのプロチームとも、なんというかアフリカのチームは「間合いが違う」という感じですごく印象に残っていますね。
一 出場したキリンカップで対戦したうち1番印象に残っている選手は誰ですか?
85年に対戦したサントス(ブラジル)のミランジーニャ選手です。この後Jリーグで清水エスパルスにも来ましたね。三ツ沢球技場で対戦した時のこと、ミランジーニャ選手が、ドリブル突破で来た時に、ペナルティーエリア外で、スライディングで止めに行った。自分が思っている以上に速いスピードでかわされそうになったので、瞬間「ファールでもいいから止めてやれ」と思い「取れた!」という感覚があったのに、次の瞬間ひらりとかわされて、キーパーと一対一になっていた。もうこれは、悔しいというよりも、サッカー選手として、本当に恥ずかしくて穴があったら入りたいくらい。何より「ファール」をとりにいったのが情けないし、それでも相手が一枚上手でかわされてしまったこと。本当に思い出深い相手ですね。
― その印象深かった1985年大会は、天皇杯優勝チームとして、読売クラブのメンバーで出場し、日本代表とも対戦していますね。チームメイトには、松木安太郎さんや、都並敏史さんもいらっしゃいました。そして、日本代表が0-1で読売クラブに負けるという結果になりました。
加藤 当時日本代表チームに招集されると長い期間、それこそ1ヶ月間くらい、海外遠征や試合をしていたので、日本代表も「自分のチーム」と言う意識が高かったのです。
だから正直こういう大会形式になった時に、身を裂かれる思いというか、相手が日本代表と言うのは本当に複雑でしたね。日本鋼管や、三菱重工、ヤマハ発動機や、ユニバーシアード代表、日本選抜が出場していた時もありましたよね。今でこそ、日本代表がクラブチームと試合をする事は無くなりましたけど。1992年頃、まさにいよいよサッカープロ化という頃から、代表チームは、代表チームと試合をする形になって、そういう意味でもキリンカップという大会も次のステージというか、明確に形が変わりましたね。この頃から日本代表のステータスが、大きく変わったと思います。
当時のキリンカップは、日本サッカー界がプロ化に向かう中で、「プロの匂い」というものを、日本人選手が直に感じられる唯一の大会だったし、やはり出場すると色々意識が上がったことを覚えていますね。
加藤 久(かとう ひさし)(ジュビロ磐田 ゼネラルマネジャー)
1956年4月24日 宮城県生まれ
1980年読売クラブ入団
代表キャップ数:61
初代表出場:1978年11月23日vsソビエト連邦戦 (国際親善試合)
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