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キリンカップミュージアム スペシャルインタビュー Vol.1 田口光久 世界のレベルを知る事ができる貴重な大会。~代表選手としてのプライドを胸に~
2016年05月24日
― 田口さんは現在のキリンカップサッカーにつながる第1回大会(当時の名称はジャパンカップ1978)に出場されています。
田口光久(以下、田口) この時代の日本代表チームは、FIFAワールドカップ出場ではなくオリンピック出場がチームの大目標でした。代表チームは国際大会で結果が出せない、日本サッカーリーグ(JSL)も盛り上がりに欠けていたのは確かですが、私たちは与えられた環境下でアマチュア選手としての誇りを持ってプレーしていました。
しかし、当時の日本代表チームは力のある相手との対戦は少なく、世界との距離もつかみにくかった。そんな中、この大会の開催が決まり、私たち選手たちは喜びましたね。ホームで欧州などの強豪チームと対戦できるのですから。当時の日本代表選手たちは最近の代表選手と同じ、もしかしたら彼ら以上に、日の丸を付けて戦うというプライドがありましたから、「よし、やってやるぜ!」という気持ちが高ぶりましたね。
― キリンカップサッカーは78年以降、毎年開催されるようになり、日本サッカー界に定着しました。改めて、キリンカップサッカーとは日本代表にとってどのような存在でしたか?
田口 世界のトップレベルのチームが来日し、一流の選手たちと真剣勝負ができるようになったわけで、日本代表にとっては願ってもない強化の機会になりましたよ。国内では通用していたプレーがこの場では通じない。このレベルで戦うには何が必要なのか、選手たちが自分の目で確かめ、肌で感じることができました。
例えば、相手がゴール前にクロスボールを送ってきたとします。国内の試合では確実にキャッチできるボールだと判断してキャッチにいきます。キリンカップでは同じ場面でも、体格やスピードで勝る相手が多いから、キャッチにいったら、相手からの圧力によりキャッチをミスして失点になる可能性が高くなります。そこで、片方の腕でしっかり相手をブロックしながら、自分のスペースを作り、もう一方の手を使って確実にパンチングでボールをはじき出すプレーをする。こんなことが実戦で経験できるんです。本当にありがたいことでした。
― 第1回大会には、日本人として初めて西ドイツ(当時)ブンデスリーガで戦う奥寺康彦さんが1.FCケルン(西ドイツ)のメンバーとして凱旋帰国しました。
田口 奥寺さんとはJSL時代にも対戦していました。スピードがあり、左足のシュートにはパワーがありました。まさに、釜本(邦茂)2世でした。奥寺さん以外にもGKハラルト・シューマッハーら世界的なビッグネームもいました。ドイツのプロクラブとしてのプライドを持ってやってきていましたね。しかし、私たちも日本代表。4万人のファンが集まった国立競技場で情けない試合はできないし、私も同じ秋田県出身の奥寺さんに負けたくないという対抗心もありました。
この試合でシューマッハーが着用しているGK専用のウェアやGKグローブは、機能的でかっこも良かった。私が使用しているものとは全くレベルが違いましたね(笑)。
― 他に印象に残っている場面などはありますか?
田口 代表チームとしてではなく、三菱重工の選手として出場した81年大会ですかね。当時は前年度の天皇杯優勝チームが単独チームとして大会に招待されたのです。結果は2連敗と振るわなかったのですが、インテル・ミラノ(イタリア)とクラブ・ブルージュ(ベルギー)に対して自分でも納得できたプレーができました。翌年、日本代表として出場したフェイエノールト(オランダ)戦では、尾崎加寿夫(元日本代表)の4ゴールで逆転勝利したことも印象に残っていますね。身体の大きなオランダ人相手に彼の技術やスピードが生きましたね。
毎年のように対戦したイングランドのクラブの若手アタッカーたちのプレーも印象的でした。常に果敢にドリブルでしかけてシュートを狙う。監督など指導陣に自らのプレーをどんどんアピールしているんです。彼らのハングリー精神や貪欲さには驚かされましたね。
― 田口さんは83年大会(当時の名称はジャパンカップキリンワールドサッカー1983)にキャプテンとして参加されていますね。
田口 この年の大会は、ロサンゼルスオリンピックのアジア/オセアニア地区予選を目前に控え、選手たちもモチベーションは高かったと記憶しています。私自身はこの予選で敗退したら現役を退こうと決意していました。だから、予選に向けた準備となるこの年の大会は、特別な思いを持って臨みました。日本代表のキャプテンに指名されることは日本人サッカー選手にとっては最高の名誉であり、誇りです。この大会、結果はあまり良くなかったのですが(1勝1分2敗で5位)、キャプテンとしてチームの士気を高めようと必死にだったと記憶しています。
実はこの時代、日本代表のキャプテンは大変だった、担当業務が多くて・・・(笑)。遠征先での食事会の手配や、帰国便に乗る順番の調整もキャプテンの仕事。チームマネージャー兼務といった感じです。チームには大先輩もいるし、個性的な後輩たちもいる。そんな中、チームをまとめるのは大変でしたね。苦労しましたよ、本当に。
― 今回の大会が開催される2つのスタジアムは、両方ともサッカー専用スタジアムです。
田口 サッカーはサッカー専用スタジアムでプレーする、見るものだと私は思っています。専用スタジアムは、サポーターとの距離も近いから一体感がありますよね。私はGKですから、試合中は観客席にかなり近いところにいるわけで、当時でも、ファンの声援に励まされました。中には手厳しいヤジも耳に入ってきましたが、私はむしろ奮起するタイプなので、楽しんでプレーしていましたよ。
豊田スタジアムは、世界のビッグクラブのスタジアムにひけを取らない規模です。市立吹田サッカースタジアムは皆さんもご存知のようにピッチと観客席の距離が短いなど、サッカーをする選手、見るサポーター・ファンにとって素晴らしい環境が用意されています。来場されるサポーター・ファンの皆さんには、このようなスタジアムでサッカーを堪能できる喜びを感じて欲しいですね。
― いよいよ、キリンカップサッカー2016が開幕します。
田口 今年は欧州の古豪、強豪が来日します。彼らも秋から始まるワールドカップロシア大会の欧州予選に向けて、準備に取り掛かっているはずです。各チームとも個性が強いし、選手たちのレベルも高い。どの試合も内容の濃い試合になるでしょう。日本代表も秋から最終予選を戦うことになります。ワールドカップロシア大会出場権獲得はもちろん、本大会でのベスト8を目指して、さらにステップアップするためにこの大会を戦って欲しいですね。
― 最後にファン、サポーターの皆さんへ一言お願いします。
ファンの皆さん、監督になったつもりでキリンカップサッカーを見るのはいかがでしょうか。たとえば相手の左サイドの選手が調子悪そうだから、右サイドから攻めていこうなどと考えながら試合を見ると、これまでとは違った楽しみが見つかるかもしれませんよ。
もちろん、試合会場に足を運ばれるサポーターの皆さん、日本代表への熱い、熱い応援をお願いします。
田口光久(たぐち みつひさ)
1955年2月14日 秋田県生まれ
1973年三菱重工業サッカー部に入部
代表キャップ:138
1975年9月8日ソウルで行われた対韓国戦、途中交代でデビュー。当時GKとしては最年少デビュー記録(20歳と206日)。