それまでに本大会に出場したことがなかった日本代表が最もワールドカップに近づいたのが、1994年のアメリカ大会。今とは異なり24か国しか出場できず、アジアに与えられた出場枠もわずかに2つに過ぎなかった。1993年にJリーグの開幕を控えており、日本サッカー界の機運が高まるなか、悲願のワールドカップ出場へ向け、日本代表は入念に準備を進めていった。
初の外国人指揮官となったハンス・オフト監督が就任したのは1992年のこと。同年のダイナスティカップを制すると、同じ年に行われたアジアカップでも優勝を成し遂げるなど、日本は一躍アジアの強豪国の仲間入りを果たしていった。
1993年の4月から始まったアジア1次予選では、タイ代表、バングラデシュ代表、スリランカ代表、UAE代表と同居したグループFを、7勝1分けの成績で首位通過。10月から始まるアジア最終予選へと駒を進めた。
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カタール・ドーハでのセントラル開催となったアジア最終予選に出場したのは、日本のほか、サウジアラビア代表、イラン代表、朝鮮民主主義人民共和国代表、韓国代表、イラク代表の計6チーム。わずか2枚の切符をかけて、アジアの列強たちが熾烈な戦いを繰り広げた。
初戦のサウジアラビア戦をスコアレスドローで終えた日本は、続く第2戦でイランと対戦。しかし前半終了間際に先制されると、86分にも相手のエース、アリ・ダエイ選手にゴールを許してしまう。終了間際に途中出場の中山雅史選手が一矢を報いたものの1-2で敗れ、2戦を終えて6チーム中最下位に転落した。
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後のない状況で迎えた第3戦の朝鮮民主主義人民共和国戦では、日本のエース三浦知良選手が意地を見せる。28分に先制点を叩き込むと、69分にも追加点を奪い、3-0の快勝劇を演出して見せたのだ。
第3戦を終えて1勝1分1敗で勝点3(当時は勝利=勝点2だった)を確保した日本は、残り2試合にワールドカップ出場をかけることとなった。