2002年のFIFAワールドカップ日韓大会が幕を閉じ、2006年のFIFAワールドカップドイツを目指す新たなチームの指揮官に就任したのは、ジーコ監督だった。
黄金のカルテットと称された中田英寿選手、中村俊輔選手、小野伸二選手、稲本潤一選手ら海外組の選手たちを中心にチーム作りを推し進め、2004年中国で行われたアジアカップで優勝を果たすなど、着実に強化を図っていった。
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同年の2月から始まったFIFAワールドカップ2次予選でもオマーン、シンガポール、インドと同居したグループを6戦全勝で突破。16得点・1失点という圧倒的な力の差を見せつけた。
年が明けて2005年、FIFAワールドカップアジア最終予選がスタートする。朝鮮民主主義人民共和国、イラン、バーレーンの4か国で争われ、上位2チームが本大会に出場できるレギュレーションだった。
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初戦埼玉で行われた朝鮮民主主義人民共和国戦では、1-1で迎えた後半アディショナルタイムに、大黒将志選手に決勝ゴールが生まれ、2-1と劇的な勝利を収めたが、アウェイでイランと対戦した第2戦で黒星を喫してしまう。1点のビハインドを福西崇史選手のゴールで追いつきながら、再び突き放されてしまう展開だった。
それでもホームで行われた第3戦は、オウンゴールの1点を守り抜き、1-0でバーレーンに勝利。前半の3試合を2勝1敗で乗り切った。もっとも苦戦が続き、チーム状態も決していいとは言えなかった。しかも、第4戦のバーレーン戦を前に行われた親善試合では2連敗。日本は次第に苦しい状況に追い込まれていった。