展示・イベント情報
常設展示情報
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01:FAシルバーカップ
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FAシルバーカップは、1919(大正8)年3月、日英の友好と日本におけるサッカー普及を目的にイングランドサッカー協会(FA)より贈られた純銀製のカップです。当時は日本にサッカーを統括する組織がなく、このカップの寄贈を契機に、1921(大正10)年、大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会/JFA)が設立されました。また、同年のア式蹴球全国優勝競技会(現・天皇杯全日本サッカー選手権大会)から優勝チームに授与されることになり、以降は、日本一に輝いたチームが掲げるカップとして親しまれていました。
不運にも第二次世界大戦の際、政府への金属供出により姿を消してしまいましたが、JFAが創立90周年を迎えた2011年、カップを復元したいという小倉純二JFA会長(当時)の意向を受けたFAが復元を快諾。FAにより復元されたカップが、同年8月23日に再びJFAに贈呈されました。
※優勝チームから返還される8月末~12月末の期間、ご覧いただけます。
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02:Jリーグ杯[優勝銀皿](レプリカ)
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Jリーグ杯(優勝銀皿)は、「Jリーグ ディビジョン1」の優勝チームに王者の証しとして贈られる直径約55cm・重さ約6kgのシャーレです。優勝チームが1年間保持します。日本サッカーミュージアムでは、このレプリカを展示しており、実際に触れたり、撮影することができます。
プレートの縁に使われている月桂樹は勝利の象徴。上下の円には「スポーツマンシップ」と「勝利の獲得」をイメージした絵が、その他の円には「タックル」「パス」「フリーキック」などをイメージした絵が描かれています。
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03:2002FIFAワールドカップ日本/韓国 円陣
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2002年6月、日本と韓国で共催されたFIFAワールドカップは、国際サッカー連盟(FIFA)としては初の共催、そしてアジアでは初の開催となった大会です。
国内のみならず世界中からサッカーファン・サポーターが訪れ、各国代表選手の闘志あふれる戦い、世界を代表する一流選手のスーパープレーに熱狂しました。また、同大会は世界の人々から「笑顔のワールドカップ」と称賛されるなど成功裏に幕を閉じ、日本サッカー界に多くの財産をもたらしました。日本サッカーミュージアムは同大会を記念して創立されたものです。 地下2階「ピッチ」では、2002年6月9日FIFAワールドカップで初勝利を挙げたロシア戦の日本代表が、円陣を組んだ姿を再現しています。選手を模した人形がまとっているのは、選手たちが実際に着用したユニフォームです。円陣はあと一人加わることで完成します。中田英寿選手や宮本恒靖選手らイレブンたちの輪に入り、本番さながらの雰囲気を体感してみてください。
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04:2002FIFAワールドカップ日本/韓国 宮本恒靖選手着用フェイスガード
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日韓共催の2002FIFAワールドカップ、日本代表の主将・宮本恒靖選手は大会直前の練習試合で鼻骨を骨折し、本大会には急いで手配したフェイスガードを着用して出場しました。 宮本選手はグループステージ初戦のベルギー戦は途中出場し、第2戦・ロシア戦からラウンド16・トルコ戦までの3試合を先発メンバーとして出場。主将として最終ラインを統率し、後ろから大声でチームメートを鼓舞するなど日本代表の躍進に貢献しました。海外のメディアはフェイスガードを着けたその姿から 、宮本選手を“バットマン”と命名し、彼の活躍を世界に発信しました。
このフェイスガード、元の色はベージュでしたが、川俣則幸GKコーチ(当時)から「黒の方が強そうだ」とアドバイスを受けた宮本選手が黒マジックで着色したというエピソードもあります。
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05:フェアプレーコーナー
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1968年メキシコオリンピックでの受賞に始まり、各カテゴリーの日本代表チームは国際サッカー連盟(FIFA)やアジアサッカー連盟(AFC)主催の国際大会で数々のフェアプレー賞を受賞。日本サッカー協会(JFA)も2007年から4年連続でAFCからAFC年間最優秀フェアプレー協会に選出されています。
日本サッカーミュージアムに展示されているフェアプレー賞は、各カテゴリーの日本代表チームが常にフェアに、かつ真摯に戦ってきた証しです。FIFAはフェアプレーデーを設けるなど、ルールを遵守し、相手をリスペクトする「フェアプレー精神」を重視していることから、これらの賞は日本サッカー界が世界に誇れる財産と言えるでしょう。フェアプレー精神なくしてサッカーの成長や成熟は考えられません。
JFAはこれからも世界の「フェアプレー賞のコレクター」であり続けていきます。
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06:2011FIFAバロンドール 年間フェアプレー賞トロフィー
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2012年1月9日、スイスのチューリヒで開催された「2011FIFAバロンドール」で日本サッカー協会(JFA)は「FIFA年間フェアプレー賞」を受賞しました。
FIFAバロンドールとは国際サッカー連盟(FIFA)がその年に目覚ましい活躍または功績のあった選手や監督、団体などを表彰する式典です。受賞はサッカー関係者にとって名誉なことです。
2011FIFAバロンドールで、日本勢は3部門で受賞。FIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011の大会最優秀選手と得点王になった澤穂希選手が「FIFA女子年間最優秀選手賞」を、なでしこジャパン(日本女子代表)の佐々木則夫監督が「FIFA女子年間最優秀監督賞」を受賞し、ともにアジア人初の快挙となりました。JFAも東日本大震災の復興支援活動などが評価され、「FIFA年間フェアプレー賞」の授与となりました。
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07:1923年 書籍「HOW TO PLAY ASSOCIATION FOOTBALL」
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本書は1923(大正12)年発刊のサッカー指導書で、チョー・ディン氏の著書が日本語訳されたものです。サッカーの基本技術や戦術などが写真や図を多用して理論的に解説されており、大正から昭和初期の日本サッカー黎明期に、日本サッカーの向上に寄与した一冊です。
ビルマ(現ミャンマー)の留学生だったチョー・ディン氏は、日本サッカーにおける外国人サッカー指導者の第一号とも言える存在で、1923年に開幕した全国高等学校ア式蹴球大会では早稲田高等学院を2度の全国制覇に導きました。その指導内容を集約したのが、本書です。後にベルリンオリンピックで日本代表監督として「ベルリンの奇跡」を起こす鈴木重義氏も、同氏の教え子の一人です。
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08:1936年 ベルリンオリンピック 日本代表ユニフォーム
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1936(昭和11)年ベルリンオリンピック、学生を中心に編成された日本代表は初めて参加したオリンピックで「世界を驚かせる」ことになります。当時、優勝候補の一角であったスウェーデンとの1回戦、日本は2点を先制された後、川本泰三選手(早大)・右近徳太郎選手(慶大)・松永行選手(東京文理大)の3得点で逆転勝利。この一戦は世界中のサッカー関係者やファンから「美しく正々堂々とした戦いだった」と称賛され、『ベルリンの奇跡』として、後世に語り継がれるようになりました。
1949(昭和24)年のノーベル賞授賞式典の際、物理学賞を授賞した湯川秀樹博士は、「ベルリンの奇跡」を覚えていたスウェーデンの記者からサッカーボールを渡されたというエピソードも残っています。
日本サッカーミュージアムでは、日本代表のオリンピック初得点を挙げたFW川本泰三選手が着用したユニフォーム(写真)を展示しています。現在、収蔵されているものの中で最古の日本代表ユニフォームです。
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09:1936年ベルリンオリンピック 手ぬぐい
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大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会/JFA)は1936(昭和11)年のベルリンオリンピック出場の際、日本代表の旅費など経費不足を補うため初めてオフィシャルグッズ「手ぬぐい」を制作し、1枚20銭で販売しました。JFAは手ぬぐいの販売のほか、広くサッカー界に寄付を呼びかけて資金を調達。ちなみに、当時の物価は白米10kgが2円48銭だったそうです。
日本代表は6月20日に出発、シベリア鉄道など利用し14日間かけてベルリンに到着しました。その後、地元チームなどとの練習試合行い、8月4日に強豪スウェーデンと対戦。後に「ベルリンの奇跡」と呼ばれる初勝利を挙げたのでした。
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10:1954年ワールドカップ スイス大会 予選「日本代表×韓国代表」ポスター
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日本蹴球協会(現・日本サッカー協会/JFA)は1950(昭和25)年に国際サッカー連盟(FIFA)に再加盟、日本代表は1954(昭和29)年に開催されたFIFAワールドカップスイス大会予選に出場。日本代表初のワールドカップ予選に挑みました。
1954年スイス大会の出場チーム数は16、アジアの出場枠はわずか1つ。アジア予選は韓国との一騎打ちとなり、結果は1分1敗で日本代表は出場権を得ることができませんでした。以降、日本代表と韓国代表は良きライバルとして戦い、幾度となくFIFAワールドカップやオリンピックの出場権を巡って熱い火花を散らしてきました。
日本代表が初めてFIFAワールドカップに出場したのは、それから44年後のことです。1954年3月7日、日本代表のFIFAワールドカップへの挑戦、そして韓国との激闘の歴史がこの日から始まりました。
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11:1964年 クラマー氏からの手紙
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東京オリンピックを目前に控えた1964(昭和39)年7月、日本代表はソビエト連邦(現ロシア)やルーマニア、西ドイツなど欧州へ約2カ月間に渡る長期遠征を行いました。その出発直前、これまで日本代表コーチとしてチームの強化に尽力したデットマール・クラマー氏からチームに1通の手紙が届きました。
この手紙には、代表選手としての名誉と責任、オリンピックに臨む心構え、そして選手たちへの叱咤激励などが綴られています。
約2カ月に渡る欧州遠征で力をつけた日本代表は、10月の東京オリンピックで強豪アルゼンチンを破るなど、初めてベスト8に進出。大会終了後、クラマー氏は日本代表に「タイムアップの笛は、次の試合のキックオフの笛だ」という言葉を残し、チームを去ることになったのでした。
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12:1964年 東京オリンピック 日本代表トレーニングウェア(川淵三郎氏着用)
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1959(昭和34)年ローマオリンピックのアジア予選敗退以降、日本蹴球協会(現・日本サッカー協会/JFA)は1964(昭和39)年の東京オリンピックを目指し、日本代表の強化策を次々と打ち出していきました。
1960(昭和35)年8月には50日を超える欧州遠征を実施し、さらに日本代表コーチとして外国人指導者の招へいを決定。同年11月、西ドイツサッカー協会(当時)から、後に「日本サッカーの父」と称されるデットマール・クラマー氏が初来日しました。基礎技術を重視し、プレーの正確性を重んじる同氏の指導のもと、日本代表は着実に力をつけていきます。
1964年10月14日の東京オリンピック初戦、日本代表は強豪アルゼンチンに逆転勝利を収めると、初めてグループリーグを突破しベスト8進出を成し遂げました。日本サッカーミュージアムでは、アルゼンチン戦で2得点目を決めた川淵三郎選手のトレーニングウェアを展示しています。
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13:1968年メキシコオリンピック 銅メダル
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日本サッカーにおける歴史的偉業の一つが、1968(昭和43)年メキシコオリンピックでの銅メダル獲得です。
長年に渡るデットマール・クラマー氏の指導により成長を遂げた日本代表は、アジア地区予選を突破し、メキシコオリンピック出場権を獲得。標高2,000mを超える高地での戦いを見据え、同年3月には現地に遠征し合宿を行うなど、入念な準備をして大会に挑みました。グループステージを突破した日本代表は、準々決勝でフランスに勝利、準決勝では後に優勝するハンガリーに敗れたものの、3位決定戦は釜本邦茂選手の2得点で地元メキシコを撃破。サッカー競技において、アジアでは初のメダル獲得という快挙を成し遂げました。
さらに日本代表は、国際サッカー連盟(FIFA)が同大会から新設したフェアプレー賞を、翌年には国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の1968年度フェアプレー賞を受賞しました。
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14:1968年メキシコオリンピック 日本代表ユニフォーム(宮本征勝氏着用)
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長沼健監督(当時)のもと、日本代表は1968年に4回目のオリンピック出場となるメキシコオリンピックに臨みました。同大会から戦術的な選手交代(2名まで)が認められるようになり、長沼監督と岡野俊一郎コーチ(当時)は積極的にこのルールを活用します。2戦目のブラジル戦では、交代出場した渡辺正選手が同点ゴールを奪い、日本に貴重な勝点1をもたらします。初戦でケガを負った八重樫茂生選手は欠場を余儀なくされ、チームを陰で支える役割に徹しました。一方、平木隆三コーチ(当時)も対戦相手のスカウティングに専念するなど、目標を同じくしたスタッフと選手が一丸となり、日本代表は世界3位という功績を収めることとなりました。日本サッカーミュージアムでは、DF宮本征勝選手のユニフォームを展示しています。
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15:1993年Jリーグ開会宣言書
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1993年5月15日、59,626人の大観衆で埋め尽くされた国立競技場で、川淵三郎チェアマン(当時/現JFA最高顧問)は、日本初のプロサッカーリーグ「Jリーグ」の開会宣言を高らかに読み上げました。
Jリーグは「日本サッカーの水準向上及びサッカーの普及促進」「豊かなスポーツ文化の振興及び国民の心身の健全な発達への寄与」「国際社会における交流及び親善への貢献」という3つの理念を掲げて創設。Jリーグ発足を機に、日本サッカーを取り巻く環境は激変し、日本サッカー界は大きな成長を遂げることになります。まさしく、日本サッカーの歴史が大きく動いた一日でした。
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16:1993年Jリーグ開幕戦使用球
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1993年5月15日、国立競技場で行われたJリーグ開幕戦「ヴェルディ川崎 対 横浜マリノス」で使用されたのが、アディダス社製の「エトルスコ・ユニコ」。
Jリーグ第1号ゴールは前半19分、ヴェルディ川崎のマイヤー選手がペナルティーエリアの外、約25mの距離から右足で放ったミドルシュートでした。
記念すべき10,000ゴール目を記録したのは、ガンバ大阪の前田雅文選手でした。2005年5月8日の名古屋グランパス戦で達成、そのゴールは本人にとってのJリーグ初ゴールでもありました。
そして、20,000ゴール目を達成したのは、2017年4月21日のJ1リーグ第8節「川崎フロンターレ 対 清水エスパルス」。メモリアルゴールを決めたのは、清水エスパルスの金子翔太選手でした。
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17:2006年FIFAワールドカップドイツ 上川徹主審使用品
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2002年FIFAワールドカップに続き、2006 FIFAワールドカップドイツにアポイントされた上川徹審判員は、廣嶋禎数審判員(副審)とともに同大会に参加しました。グループステージ2試合でのパフォーマンスが国際サッカー連盟(FIFA)から高く評価され、2人は3位決定戦のアポイントを受けました。
日本人審判員においては、日本蹴球協会(現・日本サッカー協会/JFA)が1954(昭和29)年から審判員育成プログラムをスタートさせ、1970年FIFAワールドカップ・メキシコ大会では、丸山義行審判員が日本人として初めて参加。1990年代以降はJリーグでの経験や、海外との審判交流プログラムなどを通して審判員のレベルアップを図っています。これらの努力により、日本人審判員は、安定した公正さで試合をコントロールするとして世界から高い評価を受けるようになりました。
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18:FIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011優勝トロフィー
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6回目の挑戦となったFIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011で、なでしこジャパン(日本女子代表)は国際サッカー連盟(FIFA)主催大会で初の優勝を果たしました。
グループステージは2勝1敗で突破、準々決勝では延長戦の末に地元ドイツを退け、準決勝ではスウェーデンに逆転勝利を収めました。決勝の相手は1度も勝利したことがないアメリカ。2度のリードを許しましたが、宮間あや選手と澤穂希選手の得点で追い付き、勝負はPK戦へ。GK海堀あゆみ選手のファインセーブもあり、粘り強く戦ったなでしこジャパンが3-1でPK戦を制しました。
日本女子代表が初めて編成されたのは1981年6月。その30年後、フェアに、ひたむきに戦う伝統を引き継ぎ大きく成長したなでしこジャパンが、世界女王の称号を手にしました。
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19:FIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011澤穂希選手 決勝戦着用シューズ
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日本サッカーミュージアムでは、澤穂希選手がFIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011の決勝戦で使用したスパイクを展示しています。
国際Aマッチ出場数197試合・82得点(2014年5月25日現在)。男子を含め、日本代表ランキングトップの記録を持つ澤選手は、1993年、15歳で日本女子代表に選出されると、代表チームをけん引する中心選手へと成長していきました。
FIFA女子ワールドカップには5回、オリンピックには4回出場し、FIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011ではなでしこジャパン(日本女子代表)を優勝に導く活躍で、大会最優秀選手賞と得点王を獲得。同年のFIFA女子年間最優秀選手賞にも輝きました。2012年ロンドンオリンピックでは、男女を通じて初めての銀メダル獲得に貢献しました。
澤選手は豊富な運動量でピッチを駆け回り、攻守に卓越した戦術眼を発揮、経験に裏打ちされた確かなプレーでなでしこジャパンをけん引する精神的支柱でもあります。
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20:2011年 国民栄誉賞盾
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2011年8月18日、菅直人首相(当時)よりなでしこジャパン(日本女子代表)に「国民栄誉賞」が授与されました。
同年に開催されたFIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011で初優勝を果たしたなでしこジャパンの活躍は、東日本大震災により大きなダメージを被った日本国民に、困難へ立ち向かう勇気を与えました。何より、選手たちの最後まで諦めずにひたむきに戦う姿勢は、多くの感動を呼びました。これらの功績が評価され、国民栄誉賞の受賞者としては19番目、団体としては初の受賞となりました。
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21:FIFA U-17女子ワールドカップ コスタリカ 2014優勝トロフィー
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高倉麻子監督率いるU-17日本女子代表は2014年、優勝を目標に掲げてFIFA U-17女子ワールドカップ コスタリカ 2014に臨みました。
初戦のスペイン戦で2-0と勝利して波に乗ると、その後の試合でもキャプテン杉田妃和選手や長谷川唯選手らを中心に豊富な運動量と連動した攻撃サッカーで勝利を重ね、決勝戦に進出しました。決勝進出は、準優勝となった2010年トリニダード・トバゴ大会以来2度目のことです。
決勝戦では再びスペインと対戦、初戦とは異なり苦戦を強いられましたが我慢強くチャンスをものにし2-0で勝利。全6試合で23得点・1失点と圧倒的な存在感を示し、世界一の座を勝ち取ったU-17日本女子代表が、優勝トロフィーを高々と掲げました。
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22:FIFAワールドカップ 優勝トロフィー(レプリカ)
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1930年の第1回ウルグアイ大会から優勝国に渡されたトロフィーは、FIFAの初代会長が寄贈し、その名前から「ジュール・リメ・トロフィー」と呼ばれました。
ジュール・リメ・トロフィーは、1970年のメキシコ大会で3回目の優勝を飾ったブラジルが永久保持することになりました。(残念なことに盗難にあい紛失しています。)
1974年西ドイツ大会より、ゴールを決めた選手が喜びに両手を上げ地球を支えているデザインの18金のトロフィーを「FIFAワールドカップトロフィー」と呼び、優勝国に渡され4年間保持することができました。
2006年ドイツ大会より、これまでのデザインながらサイズと重量変更がされた新しい純金製のトロフィーが優勝国に渡されています。
このトロフィーは、優勝したチームが決勝戦のスタジアムの中だけで保持することが許されます。
日本サッカーミュージアムでは、レプリカ(複製品)を展示しており、自由に触れることができます。
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23:FIFAワールドカップアメリカ’94・アジア地区最終予選の最終戦ミーティング資料
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1993年10月28日、FIFAワールドカップアメリカ’94・アジア地区最終予選の最終戦、日本代表は悲願のFIFAワールドカップ出場権獲得まで、あと一歩に迫りました。
日本サッカーミュージアムには、その大事な試合であるイラク戦前のミーティングで使用された資料が保管されています。右上には「USA 90min.(アメリカまであと90分)」の文字、左側には、イラク戦に向けて、ハンス・オフト監督(当時)が掲げていた「Small Field(スモールフィールド)」「Wide Attack(ワイドアタック)」「Have patience(辛抱強く)」などの戦術や心構えが書かれています。日本代表はこの試合、終了直前の失点で引き分けとされ、あと少しのところで出場権を逃しました。「ドーハの悲劇」と呼ばれたこの試合を、日本代表がどのように戦ったのかを知る貴重な資料です。
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24:FIFAワールドカップフランス’98 日本代表ユニフォーム(井原正巳氏着用)
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「ドーハの悲劇」から4年、日本代表は初めてFIFAワールドカップへの出場権を獲得しました。日本サッカーミュージアムでは、当時キャプテンを務めていた井原正巳選手の着用ユニフォームを展示しています。
初めて挑んだFIFAワールドカップフランス’98、日本代表はアルゼンチンなど世界の強豪と対戦。グループステージで3連敗を喫しましたが、この経験を糧に日本代表は着実に成長し、2002年大会以降も連続出場を果たしています。
2002年大会(日本・韓国)と2010年大会(南アフリカ)では、グループステージを突破し、ラウンド16に進出しました。
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25:2010 FIFAワールドカップ南アフリカ 日本代表ユニフォーム(長谷部誠選手着用)
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SAMURAI BLUE(日本代表)は「勝って世界を驚かそう」と、ベスト4進出を目標に2010 FIFAワールドカップ南アフリカに挑みました。しかし、大会前は強化試合などで思うような結果が残せておらず、ファン・サポーターの不安は募っていました。そんな中、岡田武史監督(当時)は打開策のひとつとして、2014年5月30日の国際親善試合・対イングランド戦から長谷部誠選手をゲームキャプテンに指名。長谷部選手は本大会でもキャプテンマークを巻いてプレーしました。
日本は初戦のカメルーン戦に1-0で勝利。続くオランダ戦は惜敗しましたが、第3戦のデンマークに3-1と勝利して国外で開催されたワールドカップ大会では初のグループステージ突破を成し遂げます。国民の期待を背負ったラウンド16、パラグアイとの対戦は0-0のまま延長戦でも決着がつかずにPK戦へ。最後まで勝利を祈りましたが、あと一歩届かずラウンド16で悔し涙をのみました。しかし、日本の戦いぶりは海外からも高く評価され、その後、多くの選手が海外へ移籍するきっかけにもなりました。日本サッカーミュージアムでは、強いリーダーシップでチームをけん引した長谷部選手のユニフォームを展示しています。
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