パリオリンピック出場を目指す、なでしこジャパン(日本女子代表)は、出場権1枠をかけて、2月24日(土)、2月28日(水)にホーム&アウェイ形式で朝鮮民主主義人民共和国と対戦します。女子サッカーが初めてオリンピックに登場した1996年大会から現在まで、過去6大会は、いずれも厳しい予選を戦ってきました。(東京オリンピックは開催国のため、予選出場なし)
ここでは、2004年のアテネオリンピック最終予選を振り返ります。
2003年夏、日本女子代表は、国立競技場で行われたメキシコとのプレーオフ第2戦に勝利し、FIFA女子ワールドカップの連続出場記録を守りました。徐々に世間の関心を集めるようになった彼女たちへ、翌年、再び、大きなチャンスが訪れます。日本サッカー協会が、アテネオリンピックアジア最終予選の招致に成功したのです。
アテネオリンピックの女子サッカー参加チームは、シドニー大会からふたつ増えて10。そのうち、アジアからの出場枠は2チームです。3つのグループを勝ち抜いた合計4チームでノックアウトラウンドを戦い、決勝に進んだ2チームが本大会の切符を獲得する形式でした。本大会出場権がかかる準決勝で対戦が予想されたのは、当時、アジア最強とうたわれていた朝鮮民主主義人民共和国。上田栄治監督以下代表スタッフはライバルを徹底的に研究しました。
そして、前年までベースにしていた3バックから、右サイドハーフを置かない、変則的な4バックにフォーメーションを組み変えます。その過程で大部由美キャプテンら、これまでレギュラーを務めてきた選手が控えに回りましたが「サブが強いチームは強く、サブが弱いチームは弱い」(大部)と声を掛け合いながら、「メンバー全員でオリンピックの切符をとる」という一体感につながりました。
ベトナムとの初戦を快勝し、タイ戦も連勝。2日後の4月24日、運命の準決勝を迎えます。予想通り、対戦相手は朝鮮民主義人民共和国。試合の流れを決めたのはキックオフ直後のプレーでした。出場を危ぶまれるほどの大ケガを押して出場した澤穂希が、相手のエース、リ・クムスクに強烈なショルダーチャージを浴びせ、ボールを奪います。「あれで『いける!』と思いました」と宮本ともみ。3万人を超える大観衆とベンチのチームメートが送る声援を受けて、青いユニフォームが国立のピッチで躍動しました。
荒川恵理子の活躍で前半に2点。後半にもセットプレーから練習し続けた形で、大谷未央がゴールを奪います。それまで対戦成績で圧倒的な劣勢にあった朝鮮民主主義人民共和国に3対0の完勝。当時の代表選手の多くは「サッカー人生で最高のゲーム」にこの試合を挙げています。
この勝利の陰には「女子代表の活躍を日本の女子サッカー界全体の起爆剤にしよう」という各所属チームの協力がありました。前年度から年間約100日にも及ぶ代表合宿が組まれ、個々のフィジカルコンディションを引き上げ、集団戦術の熟成にもつながったのです。
オリンピック予選終了後、日本女子代表の愛称が公募されました。新たに「なでしこジャパン」とネーミングされた日本女子代表は、7年後の2011年、世界一に輝き、その愛称は同年の流行語大賞に輝くことになります。
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※この記事は2024年02月15日にオンラインにて取材した内容です。
朝鮮民主主義人民共和国(DPR Korea)とは2004年のアジア予選でアテネオリンピックの出場権を懸けて対戦しました。本大会出場枠は現在と同じ「2」で、日本女子代表はその前回大会に当たる2000年シドニーオリンピックに出場できなかったこともあり、今ほど女子サッカーが世間に知られていませんでした。それでも、DPR Koreaとの一戦に勝ってアテネオリンピックに出場したことで、少しずつですがなでしこジャパンという名前を知ってもらえたと思います。
あのDPR Korea戦は改修前の国立競技場に、3万人超と当時の日本女子サッカーでは考えられないほど多くの方々が応援しに来ていただき、結果として3-0で勝つことができました。今振り返ってみると、ベスト3に入るくらい、日本女子サッカーの歴史を変えた1試合だったのではないかと思います。
キックオフ直後に、私が相手選手に強くチャージした場面は覚えていますね。当時、私は膝の半月板を手術するくらい大きなけがをしていたので、痛み止めの注射や薬を飲んで臨み、正直、自分の足の感覚が麻痺するくらいでした。
でも、あのとき、絶対に勝ちたいという気持ちがあり、もう自分の足がどうなろうとこの試合は絶対に勝たなくちゃいけない、アテネオリンピック出場権を取らなきゃいけない、という強い思いがありました。なので「絶対にボールを取ってやる」という思いで試合に臨み、あのキックオフ直後の強いチャージにつながりました。
代表チームの一人一人が「アテネオリンピックに出場できなければ、もう女子サッカーは注目されないかもしれない」というプレッシャーも抱えながらプレーしていましたし、あの試合は絶対に勝たなくてはいけない試合でした。でも、負けたらどうしようという気持ちよりも、不思議と勝てる気がするという気持ちも持っていました。
それまでDPR Koreaには負けることが多かったですが、その中で勝利という結果を残すことに対して、みんながわくわくした気持ちが大きかったのは、とても印象に残っていますね。
昨年の第19回アジア競技大会(2022/杭州)では、日本がいいサッカーをしてDPR Koreaに勝ちましたが、そうは言ってもアジア最終予選となると、相手も背負うものがあるでしょうし、その覚悟は本当に強いものがあると思います。それはどのチームよりも強いものだと自分の過去の対戦でも感じたことなので、今回の2試合はどうなるか分からないというのが、正直なところです。
今はなでしこジャパン(日本女子代表)を応援する立場ですが、今のなでしこジャパンもいいチームなので、そこで勝負強さを出してくれると期待しながら試合を楽しみにしています。
当時は国立の観客席が青色に染まって会場が一体化したことで、みんなで応援してくれていることをすごく感じられました。やはり苦しい時間帯にサポーターやファンの方々の一声っていうのは本当に選手の背中を押してくれるので、それがうれしかったですし、勝利への原動力になったと思います。なので、今回のDPR Koreaとの第2戦は平日ですが、たくさんの方に会場へ来ていただいて、なでしこジャパンの後押しをしてほしいと思います。
今、日本サッカーはすごく注目されていますが、自分が長年なでしこジャパンに携わってきて、どんなときもやっぱり結果がすべてだと実感してきました。今回もDPR Koreaに勝ってオリンピック出場という結果を残すことで、一人でも多くのファンが増えてほしいですし、一人でも多くの人に女子サッカーを知ってもらう機会になってほしいです。
試合を見る子どもたちに夢を与えることができる試合、と言い過ぎると選手のみんなのプレッシャーになったら嫌ですけど、でもそのくらい私は期待を持っているので、まずはアジア最終予選で今持っている全力を出し切ってほしいです。
20年前は本当にLリーグのチームがなくなってしまうことがあったので、女子サッカーは注目されなくなったら終わりというのを、身に沁みて感じていたように思います。なので、代表チームもクラブチームも結果が大事だと思います。
実際にFIFA女子ワールドカップドイツ2011で優勝した結果、女子サッカーの競技人口も増えましたし、観客数も増えていきました。それもあの結果で女子サッカーの認知度が上がったからだと思います。今回のアジア最終予選でパリオリンピックへの出場権を勝ち取り、そして、パリで優勝してくれれば、さらにいろいろな人に注目してもらえるチャンスが生まれてくると思います。なでしこジャパンにはぜひ頑張ってほしいと思います。
※この記事は2020年06月10日に公開されたものの再掲です。
アテネオリンピックアジア最終予選で、この試合に勝てばオリンピック出場が決まる一戦でした。朝鮮民主主義人民共和国女子代表(DPR Korea)というのは本当に強くて。何が強いって、気迫や気持ちの面でとても強く、いつも私たち日本の前に立ちはだかってきたチームでした。当時の日本女子代表は上田栄治監督を中心に、先輩方がひとつひとつ積み上げてきていて、私はまだ大学生で若手でしたが、「このチームは強い」と感じていました。チーム全体でこの試合にかける思いも強くて、相手に負けないくらいの気合いが入っていました。
2点のリードでハーフタイムに入りましたが、それでも安心している人は誰もいなくて、後半攻めてくるであろうDPR Koreaに対して、「守りに入ってしまっては防戦一方になる」「相手陣地でプレーしよう」と声を掛け合っていました。後半序盤、2得点に絡んだ荒川恵理子選手との交代で入りました。この頃から私はすでに途中投入という役割を与えられていて、後半から流れを変えるカードとしてチームの皆さんからも認識してもらっていました。ピッチに入ったときは、「点を取ってやろう」というよりも、せっかくの良い流れを切らないために、「変なボールの失い方をしないで長い距離を走ろう」とか、「相手陣地で仕掛けよう」とか、とにかくチームメイトを楽にさせたい一心でした。 澤さんとは同部屋だったので、彼女が足を痛めてコンディションが良くないのも見ていました。試合中はそれがわからないくらいのプレーを見せていて、「澤さんの負担を減らさないと」という思いが特に強かった記憶があります。一方で、DPR Koreaもここで勝たなければオリンピックに行けない。身体の当たりもすごくて、ユニフォームが破れるかというくらい引っ張られましたが、私はとにかく気持ちで負けませんでした。
その後のFIFA女子ワールドカップでさらに多くの観衆も経験しましたが、やはり、この時の国立競技場の雰囲気は忘れられません。当時は代表戦でも、スタンドにいるお友達や知り合いを見つけることができるほど観客が少なかったのですが、この日は誰も見つけられませんでした。DPR Koreaの応援席もいつもよりも気合が入っていたように思いました。在籍していた日体大サッカー部の仲間たちがバックスタンドに横断幕を出してくれているのを見つけて、とても心強かったのも覚えています。ピッチに入ってからも、前に仕掛けると歓声が沸き、たとえ話ではなく本当に背中を押されました。
アテネオリンピックの出場権を獲得して、それまで「A代表」と呼ばれていた私たちのチーム愛称が「なでしこジャパン」となりました。正直、最初はしっくりこなかったのですが、徐々に好きになり、いまではこれ以外にないと思うくらい好きです。なでしこジャパンには、サッカー人生の多くの時間を過ごさせてもらって、メンバーが変わろうが、一緒にプレーした人たちは全員家族のような存在です。絆の強さをすごく感じます。
なでしこジャパンが世界トップレベルのチームと肩を並べてプレーする姿をもう一度見たいという思いがあります。そのためにはプレー人口が増えること、そして国を挙げての盛り上がりが必要なので、なんとしてでもFIFA女子ワールドカップの日本開催を、と期待しています。アテネオリンピックの頃はテレビの前で応援していたであろう世代がその後入ってきて、一緒にFIFA女子ワールドカップを戦い、世界一になりました。日本でサッカーをやっている女子みんなが「なでしこジャパン」の一員だと思っていますし、戦う姿を見せることが次の世代につながっていくという気持ちで、女子サッカーがレベルアップしていってほしいなと願っています。