2019.12.24
第28回全日本高等学校女子サッカー選手権大会が2020年1月3日(金)に開幕します。高校日本一を決する大会に出場した選手はどのような青春時代を過ごしてきたのか。ここではなでしこジャパン(日本女子代表)でキャプテンも務める熊谷紗希選手の高校時代のストーリーをお届けします。
インタビュー前編 ~高校入学直後にポジションをつかんだ~ 熊谷紗希選手(オリンピック・リヨン)
地元の北海道から単身、宮城県に渡り、2006年に常盤木学園高校サッカー部に入部した熊谷紗希。同校の阿部由晴監督をして「断トツにうまかった」というサッカーセンスですぐさまボランチのレギュラーポジションを獲得し、主力として活躍する。翌2007年には、高校2年生ながらなでしこジャパンに初選出された。
さすがの熊谷も初めての代表では「緊張で何もできなかった」(阿部監督)そうだが、日本女子サッカーの最高峰の環境で学び、サッカー部に還元する部分も多くあったという。
3年に進級すると、熊谷はキャプテンに就任した。有力候補として熊谷を含めた2人の名前が挙がる中、最終的には熊谷に決定したのだが、阿部監督から直接、任命されたり、選手間の話し合いや投票で決めたりしたわけではなかったという。熊谷はその時の様子をこう振り返る。
「新人戦でキャプテンを務める人がそのままキャプテンになる、という伝統があるんです。大会が始まるまで誰も知らされず、移動バスのキャプテン席についても『誰が座る?』、『誰も言われてないから座れない!』となっていたんですが、新人戦のパンフレットを見たら、キャプテンの欄に私の名前があって、『あたしかぁ!』って思って(笑)」
後に阿部監督から「キャプテンは紗希で」という話はあったそうだが、熊谷にはパンフレットの印象が非常に強く残っているという。一方、阿部監督は「彼女しかいない。誰もが納得する人選だったと思います」と、任命に迷いがなかったことを明かしている。
当時の常盤木学園は、熊谷の同級生に後藤三知(現コルドバCF)や小原由梨愛(現ニッパツ横浜FCシーガルズ)、櫻本尚子(現ノジマステラ神奈川相模原)、1学年下に齊藤彩佳(現マイナビベガルタ仙台レディース)や中村楓(現アルビレックス新潟レディース)、2学年下に齊藤あかね(現ASエルフェン埼玉)や坂本理保(現ニッパツ横浜FCシーガルズ)など、後になでしこリーグやなでしこジャパンで活躍することになる有望株を数多く抱えていた。
チーム内での競争が激しくなったこともあり、阿部監督は選手たちの自主性を促して個々の意識を高めるべく、それまであった「炭酸飲料を飲まない」、「インスタント食品は食べない」といったルールを撤廃すると選手たちに伝えた。高校生である選手たちから歓迎されそうなルール撤廃だったが、これに異を唱えたのがキャプテンの熊谷だった。阿部監督はこの時の様子を次のように振り返る。
「熊谷が私に意見してきたんですよ。『先生それはダメです。ルールがないと困ります』と。どうしてだと聞いたら『(部内の)基準なので。基準はしっかり守るべきです』と。『じゃあ君たちで新しい基準をつくりなさい』と任せたら、自分たちで約束事を決めるようになりましたね。自分たちで決めさせると、私が決めるよりも厳しいルールをたくさんつくるんですよ。時々チェックして、こちらが排除しなければいけなくなるぐらいでした」
熊谷自身、キャプテンに就任したことで「自分の行動を見直して、『なんでお前に言われないといけないの?』とならないよう、意識して動くように」なったという。「同期がすごく協力的で、みんな本当に高い意識を持ってやってくれたので、キャプテンが大変だったということはないです」と当時を振り返っているが、熊谷のキャプテンシーや意識の高さが周囲に影響を与えた部分も大きかったのではないだろうか。
「将来は日本代表のキャプテンになると思っていました」。阿部監督のそんな見立ては、後に現実のものになる。
最高のチームメートたちに囲まれ、熊谷は高校生活最後の1年間を迎える。まず挑んだのは「一番大きな大会」(熊谷)、「勝ちたい大会」(阿部監督)という全日本高等学校女子サッカー選手権大会。常盤木学園は2002年に初優勝を飾って以来、4年連続で準優勝、熊谷が2年次の2007年は準決勝敗退と、タイトルに一歩届かず悔しい状況が続いていた。
インタビュー後編 ~念願のタイトルを奪取でチーム、自身ともにさらなる高みへ~ 熊谷紗希選手(オリンピック・リヨン)
大会期間:2020/1/3(金)~2020/1/12(日)
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